ドラマチック幕末展 ミニ解説
■篤姫の生きた時代
■篤姫の一日
■大奥
■安政の大獄
■天誅と新選組
■新選組と東照大権現
■八月十八日の政変
■大政奉還
■鳥羽伏見の戦い

 ■篤姫の生きた時代
 篤姫は天保6年(1835)、薩摩で生まれました。内憂外患で政情が不安定 な中、黒船の来航、安政の大獄、井伊大老の暗殺、皇女和宮の降嫁、池田屋事件 、禁門の変、大政奉還、王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦い、江戸城無血開城な ど、様々な出来事が起こりましたが、篤姫は嫁いだ先の徳川家のために力を尽く した女性でした。  篤姫は、薩摩藩主・島津斉彬の養女となり13代将軍家定との婚儀をすすめる 中で、身分を上げるために公家・近衛忠所Gの養女となります。 そして家定の御台所(妻)となりました。  これは長らく政略結婚と言われてきましたが、婚儀を打診したのは幕府からで あり、将軍継嗣問題が起こる以前の事でした。島津斉彬は一橋派の重鎮でしたが 、篤姫は将軍継嗣問題では一橋派と対抗する大奥の考えに従うほかありませんで した。  篤姫の結婚生活はわずか1年9ヶ月でした。病弱であった夫の死後、天璋院と 名乗り、14代将軍家茂の養育に尽力しました。  一方で家茂の御台所となった孝明天皇の妹・和宮とは当初不仲であったといわ れています。江戸でも御所風の生活にこだわる和宮と、大奥では武家風が当然だ と考える篤姫は考え方が合いませんでした。しかしある時、和宮が家茂のぞうり を揃えたことで、篤姫は心を許すようになったといいます。ところが平穏な日々 は続かず、今度は家茂が大坂城で亡くなってしまいます。  江戸城開城の際には、篤姫、和宮はそれぞれが自らの意思で新政府軍に嘆願書 を出し、江戸の総攻撃を免れることができました。これによって100万の江戸 市民が救われたのです。  篤姫に対する江戸市民の思いは厚く、その葬儀には1万人の人々が沿道に集ま り、見送ったといわれています。

■篤姫の一日
 起床は午前7時、まず鉄漿(お歯黒)をします。篤姫はお風呂が好きで朝と夜 2回入りました。  入浴が済むと女中が髪を整え、8時に朝食です。本膳にはご飯、お汁、膾皿( だいこん、にんじん)、二の膳には豆腐、おたま(たまご)、おすまし、鯛です 。多いように思いますが、少し箸をつけるだけでした。好物は薩摩の味噌や高輪 の薩摩藩邸で作った漬物でした。  次に召し替え(着替え)して、御仏前で位牌を将軍の後に拝します。昼食後は 教養の時間で、お茶・お花・読書・庭の散策などをしましたが、篤姫は机に向か い読書することが多く、御謡が好みでした。 夕食には御酒がつき、酒豪だったといわれています。

■大奥
 大奥は三つの区域からなっていました。御殿向は御台所の住居で将軍や御台所 の公式行事を行なう場所がありました。この建物の東隣には御広敷があり大奥の 管理警備部があり、男性の役人が詰めていました。この北隣には長局があり、女 中たちの住居になっていました。女中が出入りするのは御広敷で、午前8時と午 後4時でした。14代将軍家茂の頃は、大奥には役付の女性が389名いました が、その他の女中を含め俗に「大奥三千の女中」と呼ばれていました。

■安政の大獄
 幕府の大老・井伊直弼はアメリカの圧力に押され、天皇の勅許を得ずに日米修 好通商条約に調印し、貿易に踏み切りました。また将軍継嗣問題では、南紀派の 徳川慶福(家茂)を次期将軍にすることを独断で決定したため、井伊大老に攘夷 派や一橋派からの批判が集中します。  また水戸前藩主・徳川斉昭と井伊大老は犬猿の仲で、水戸藩は朝廷と密かに政 治行動に出て、水戸藩は孝明天皇から戊午の密勅を下されました。   そこで井伊はこの動きを力で押さえ付けるために、反対派や幕政を批判する者 をを徹底的に弾圧しました。これを安政の大獄といいます。  しかし、この反動で井伊は暗殺され、幕府の権威は地に落ちました。そこで幕 府は復権を図るために朝廷との協調を模索し、公武合体を目指しました。

■天誅と新選組
 幕府の権威は失墜し、京都では過激な志士たちが安政の大獄の報復として天誅 事件を起こし、幕府に圧力をかけました。この天誅と称したテロ行為は幕末に1 61件も起こりました。  志士たちは朝廷を通じて幕府に攘夷期限を迫り、将軍を上洛させ、攘夷祈願を 行おうと企てました。  京都の治安が悪化したため、幕府は江戸で治安維持部隊である浪士組を結成し て京都に送り込みました。しかし浪士組の発案者である清河八郎が浪士組を攘夷 に利用しようとしたため、幕府はあわてて江戸に帰るよう求めました。しかし芹 沢鴨、近藤勇らが京都残留を決め、京都守護職のお預かりとなり、壬生浪士組を 結成しました。  のちに朝廷から新選組の隊名を賜り、池田屋事件、禁門の変と活躍、幕府から 信任を得て、慶応3年6月には幕府持参に取り立てられました。

■新選組と東照大権現
 徳川家康は死期を悟ると僧の天海を枕元に呼び「命が尽きたら、遺骸は静岡の 久能山に祀り、葬礼は東京の増上寺にて行い、位牌は愛知の大樹寺に立て、一周 忌が過ぎたら栃木の日光山に小堂を建て関東八州の鎮守とせよ」と言い残しまし た。  久能山に祀るときの神号をめぐって僧の天海と崇伝が激論しました。天海は山 王一実神道によって「権現」を唱え、一方、崇伝は平安時代から伝統的神道であ る唯一神道から「明神」を唱えてお互いにゆずらなかった。結局、「権現」と決 まり、遺言通り一周忌に日光東照宮を完成させ、家康の柩を久能山から日光に移 し遷宮祭を執り行われました。  新選組が戊辰戦争の北関東での戦いで「東照大権現」の大幟を隊旗としたのは 、家康公の威光を掲げて戦い抜こうと考えたからでした。このように新選組は徳 川家に対して誠を貫いたのです。

■八月十八日の政変
 朝廷内には、尊王攘夷派と公武合体派の公卿がいて、お互いを牽制していまし た。急進派と呼ばれる三条実美らは志士らと結束し御所内の学習院でしばしば政 局について論じ、倒幕を画策していました。  しかし薩摩藩と会津藩は公武合体派の公卿と手を結び、文久三年(1863) 八月十八日、御所の九門を固めます。そして三条ら七卿は長州勢とともに御所の 参内を差し止められ、京都から一掃されました。これが世にいう七卿落ちです。  翌年、池田屋事件で激高した長州は率兵上京し、禁門の変が起こります。しか し敗戦し、第一次長州征伐で屈服、七卿はさらに九州へ落ちていきました。のち に薩摩藩と長州藩は坂本龍馬らの仲立ちで薩長同盟という軍事同盟を結び、倒幕 への大きな原動力になりました。

■大政奉還
 第二次長州征伐で幕府軍が苦戦する中、将軍家茂が大坂城で急死しました。幕 府の求心力はますます低下し、幕府の崩壊は時間の問題となります。さらに将軍 後見職の一橋慶喜が将軍職に就くことをためらい益々政局は混沌としました。  経済は疲弊し、軍事面での改革が急務でしたが、人材不足で山積する諸問題を 処理できる幕臣がいませんでした。慶喜は待望されて将軍に就任し、まずフラン スの援助で軍政改革に着手しました。  しかし時既に遅く、西南諸藩を中心とした新国家構想が坂本龍馬によって画策 され、薩摩藩、長州藩が手を結び倒幕へ進んでいきました。薩長同盟です。  さらに龍馬は、血を流さない政権交代である大政奉還を土佐藩を動かして慶喜 に進言し、それに対して薩長は武力による討幕を目論んでいました。  慶喜は武力討幕派の先手をうつために、政権をいったん朝廷に返上しました。 そして雄藩による連合政権による再編を考えていたのです。 しかし、その構想は王政復古の大号令、そして鳥羽伏見の戦いで絶たれるのでし た。

■鳥羽伏見の戦い
 将軍慶喜は大政奉還をしたものの、幕臣の多くはこれに反対を唱えていました 。しかし朝廷は将軍職の辞職を受理しないまま、王政復古の大号令で幕府の職制 を廃止してしまいます。それに加えて小御所会議では岩倉具視らが、慶喜の辞官 と徳川家の領地返納を決めました。さらに薩摩藩は旧幕府軍を暴発させるために 、江戸市中で攪乱作戦を行い、浪士に強盗や放火をさせます。  これに対して旧幕府軍は、「薩摩討つべし」と京都の鳥羽と伏見に進軍、戦端 が開かれました。薩長軍には錦の御旗が翻って官軍となり、旧幕府軍は賊軍とな りました。これにより旧幕府軍は寝返りが相次いで敗北し、慶喜は失意し、船で 江戸に逃げ帰り、恭順の意を表しました。
                              

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