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  2013年通年特別展「会津の武士道 第2期 会津藩と新選組」見どころ
   孝明天皇御宸筆や松平容保直筆和歌など。新選組初公開資料も
 
 2013年通年特別展「会津の武士道 第2期 会津藩と新選組」では、幕末騒乱の京都で共に治安維持にあたった会津藩と新選組関連の初公開をふくむ豊富な資料を紹介しています。
 文久2年(1862)、幕府からの強い要請によって京都守護職となった会津藩・松平容保。翌年、14代将軍家茂上洛の警護のために結成された幕府浪士組。その一部が京に残留して「壬生浪士組」を結成し、会津藩お預かりとなりました。会津藩のもと、騒乱続く京都の治安維持にあたった壬生浪士組は「八月十八日の政変」での御所警護の功績が認められ、朝廷・武家伝奏から「新選組」の隊名を与えられました。この名はもともと江戸中期の会津藩の軍制にあった「新撰組」という名称からきており、会津藩から朝廷に上申され、認められたと考えられます。その後、会津藩と新選組は結びつきを強め、ともに戊辰戦争を戦いました。
 本展覧会では、初公開を含む豊富な資料で会津藩と新選組を紹介しています。その見どころの一部を紹介します。
ご来館のうえ、ぜひ実物をご覧ください。
【初公開】孝明天皇御宸筆 「忠誠」              霊山歴史館蔵  
  第121代孝明天皇の御宸筆。徳川御三家の一つ・尾張藩の藩主徳川慶勝(松平容保の実兄)に、「八月十八日の政変」の御所警備の褒美として与えられたものと思われます。「忠誠」という言葉は、文久3年に松平容保へ与えられた御宸翰(天皇直筆の手紙)にも登場。容保はこの御宸翰を竹筒に入れて終生肌身離さず、持ち歩きました。
 孝明天皇は、和宮の兄で、明治天皇の父。公武合体を推進しましたが、慶応2年(1866)崩御しました。御年36歳。
 松平容保 和歌  【初公開】梅田千代 辞令
 「日光山湯湖のたきを
湯のうみの あまれるたきの本にきて なつはあつさを先あらふらむ 容保」
明治31年(1880)、容保は日光東照宮宮司に着任しました。その際温泉で禊をしたことをうたったもの。
(霊山歴史館蔵)
 尊王攘夷志士の先鋒となり、安政の大獄で捕縛され、安政6年(1859)獄中死した梅田雲浜の後妻・梅田千代は、明治5年4月、京都に女子の高等教育機関である女紅場が設立されると、その教師となりました。上図は明治8年の女紅場権舎長任命辞令、下図は明治9年の女紅場看督助任命辞令です。新島八重も同時期に勤務しており同僚でした。(梅田昌彦氏蔵)
 「佳人之奇遇」  東海散士著                 霊山歴史館蔵
 東海散士の本名は柴四朗で、嘉永5年(1852)会津藩士の子として生まれました。会津戦争では鶴ヶ城に籠城し、囚われの身となりました。釈放後米国に留学。ハーバード大学などで学び、帰国後、国粋主義的な政治小説「佳人之奇遇」を発表し、高い評価を得ました。右の挿絵は鶴ヶ城の降伏開城に際して八重が壁に和歌を刻んでいるシーン。和歌は「明日よりはいずくの誰かながむらん なれし御城に残す月影」。
東海散士はその後、大阪毎日新聞主筆、衆議院議員などを歴任しました。
 錦絵 甲州勝沼二於て近藤勇驍勇之図         霊山歴史館蔵
 月岡芳年画。慶応4年(1868)3月6日、甲州勝沼の戦いにおける近藤勇の勇姿を描いたもの。近藤はこの戦いにやぶれた後、新政府軍に捕縛され江戸の板橋で、斬首されました。     
 【初公開】尾形俊太郎 漢詩 轉雍和心  【初公開】尾形俊太郎 漢詩 雍和心轉
 
 尾形俊太郎は、新選組五番隊組長。本名は三嶋俊太郎。天保10年肥後熊本に生まれる。鳥羽伏見の戦い後、
江戸へ帰還し、甲州勝沼から会津まで転戦しますが、会津戦争中に離隊。熊本に帰郷し、大正2年(1913)没。行年75歳。左の漢詩の字義や読み方を書いた説明文が右の書。漢詩の大意は「厳しい寒さのなかでも露に頼って香ばしく咲く梅花のように、人間も万事忍耐が大事」。右には、後半部分に「寿命」と題した道歌が書かれている。大意は「新選組の仲間は早世したのに、自分だけが生き残っているのは哀れである」。
両資料は、新選組結成150年、尾形俊太郎没後100年を機に、ご子孫の三嶋重彦氏からご寄贈いただきました。
 
 
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