嘉永6年(1853)6月3日、ペリー艦隊4隻が浦賀沖に来航し、開国を求めました。
ペリーは砲艦外交で幕府にフィルモア大統領の親書受け取りを要求し、幕府はこれに屈して久里浜で親書を受け取りました。
1年間の猶予を取り決めましたが、ペリーは意表を突き、嘉永7年(1854)1月16日に再来航しました。
そして3月3日に日米和親条約が結ばれました。
吉田松陰は、師匠・佐久間象山(しょうざん、ぞうざん)の勧めもあって海外密航を決意し、弟子の金子重之輔と小舟で近づき、ポーハタン号に乗船を願い出ました。
しかしペリー提督の承諾を得ることはできず、下田奉行所に自首して伝馬町獄舎に投獄されることになりました。
約35点の史料で、ペリー来航や松陰の実像に迫ります。