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2019.03.08
霊山歴史館では、明治150周年を記念して、2018年に横浜市・武溪文庫の一部である147点の幕末・明治維新資料を譲り受けました。武溪文庫は増田恒男氏(右写真・大倉精神文化研究所 客員研究員)が収集された幕末・明治維新及び横浜資料のコレクションです。
今回、特別リニューアル展の第1期展示品の中から、特に「時代を動かした資料たち」を簡単にご紹介します。詳しい解説は館内でご覧ください。
勝海舟が詠んだ漢詩と咸臨丸の絵で、海舟の代表作である。万延元年(安政7年・1860年)2月26日、咸臨丸は太平洋の荒海を渡り切り、サンフランシスコに入港した。その日の夜、勝は甲板に出て、月を見ながらこの漢詩を詠んだ。
文久2年(1862年)、高杉晋作ら長州藩士のイギリス公使襲撃計画を知った山内容堂が、長州藩世子・毛利定広(のち元徳)に急報した書状。九十九洋外史は容堂の別号。同年11月、高杉や久坂玄瑞ら11人は武蔵国金沢八景に遊覧する英国公使を襲撃しようとした。久坂からこの計画を打ち明けられた土佐の武市半平太は驚き、容堂にこの旨を告げ、定広が彼等を制止した。
元治元年(1864年)、井上聞多(のちの馨)は俗論党に襲撃されて瀕死の重傷を負った。
高杉晋作は俗論党が勢いづいてきた状況を見て九州へ亡命する途中、井上を見舞って一片の詩を贈った。井上が苦しい息の下から「身体は数か所を斬られる大怪我を負ったが、志はまだ衰えていない」と唱和したのがこの詩である。
北越戊辰戦争で共に戦っていた時山直八が戦死するなど、苦戦を強いられた山県有朋が思わず詠んだ和歌。
慶応4年(1868年)5月、山県は長岡勢の守る榎峠・朝日山などの陣地で、多くの篝火が盛んに燃えている様子を見て詠んだ。山県の代表作である。
早川松山画。文久2年(1862年)8月21日に起こった生麦事件の様子を描いた有名な錦絵である。明治10年1月に出版された。
国是七条は、文久2年(1862年)に福井前藩主・松平春嶽が幕府の政事総裁職に就任した際、小楠が幕閣に建白した政策案である。国是七条は坂本龍馬の作った政策案である「新政府綱領八策」に影響を与えたといわれている。
福井藩士の村田巳三郎(氏寿)が写したもの。
武溪文庫の「武溪」とは、武蔵国の小さな谷間というほどの意味である。
宝暦年間、武蔵国久良岐郡永田村(現・横浜市南区)の東輝庵(とうきあん)に住した禅僧・月船(げつせん)禅慧(ぜんね)は号を武溪といい、その徳を慕って誠拙周樗(せいせつしゅうちょ)や仙厓義梵(せんがいぎぼん)など多くの僧が参禅した。東輝庵からは近世臨済禅の指導者を輩出し、彼ら禅僧のもとで漢詩文芸などの文化が華開いた。当時の学者・詩歌俳人たちからは「武溪文化」とさえ呼ばれた。文庫は、それにあやかって名づけたのである。(増田恒男氏執筆「武溪文庫について」より)
いずれも、時代を動かすこととなった歴史的価値の高い資料です。ぜひご覧ください。
※2019年5月6日には、武溪文庫の増田恒男氏による講演会を当館で開催します。こちらもぜひご参加ください。
※武溪文庫の詳細については、2019年5月発刊予定の紀要24号に増田氏に寄稿していただきます。こちらもどうぞ、お楽しみに。