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2020.01.16
1月29日より新たに春の展覧会「徳川幕府と新選組」が始まります。
新選組の資料や、最後の将軍・徳川慶喜の書など約100点を展示、初公開資料も登場します。
その中から、見どころ資料をご紹介します。
弘化4年(1847)の仲秋(8月)に、慶喜がしたためた書になります。この時、慶喜は数え年で11歳(満10歳)、御三卿一橋徳川家へ養子に入った際にしたためたと考えられます。一橋家の養子になるのは見知らぬ土地に嫁ぐようなものであるが、新しい土地に深く根を張って、松のように一橋家を繁栄させたいという意気込みを詠んでいます。
近藤が着用した鎖帷子で、重量は約6kgもあります。鎖帷子は細かい鎖を編んで作られた防具で、衣服の下に着用することから「着込み」とも呼ばれます。
近藤が京都に上る前に道場で着用した「髑髏刺繍(どくろししゅう)の稽古着」にあるボタンと同じ形・材質のボタンがつけられていたため、近藤の鎖帷子だということが分かりました。
孝明天皇直筆の書になります。徳川御三家の1つである尾張藩の藩主を務めた徳川慶勝が、文久3年(1863)の「八月十八日の政変」に際し京都御所の警備をした褒美として与えられたものだと思われます。書は上質の料紙にしたためられており、表装も天皇家の紋である「菊の御紋」をあしらった優美なものになっています。
黒船来航後、幕府の外交官として諸外国との交渉にあたった幕臣・川路聖謨が記した漢詩です。川路は微禄の御家人の出身ですが、文武に励み勘定吟味役、奈良奉行、大坂町奉行、勘定奉行などの要職を歴任しました。また奈良奉行在職中には景観整備のため桜の植樹を行っており、この漢詩にも桜に言及した箇所があります。
近衛忠煕が京都所司代に就いた桑名藩主・松平定敬に与えた和歌です。忠煕は関白を務めた上級公卿であり、篤姫の養父としても知られています。定敬の勤王の心が深いことを感じ取って詠み与えた和歌で、定敬の働きぶりを讃えた内容になっています。表装の三つ葉葵の生地は、14代将軍・徳川家茂が与えたものと推測されます。
フランスから派遣された駐日全権公使レオン・ロッシュ(1809~1901年)が幕府の老中にあてたフランス語の書簡です。文久3年(1863)、英仏蘭米四ヶ国と長州藩の間で「下関戦争」が勃発し、その結果、幕府は賠償金300万ドルを支払うことになりました。この文書には、その支払いなどに関する交渉経緯が記されています。
いずれも歴史的価値の高い資料です。ぜひ実物をご覧ください。