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2021.05.14
大河ドラマ『青天を衝け』の主人公渋沢栄一が中国の古典に見える詩をしたためた書になります。晩年に趣味を尋ねられた渋沢は「あまり多くない」と答えていますが、書は非常に好み「外の事は何にも頭に浮かばなくて無心になるのが大変愉快である」と語っています。
多忙を極めた渋沢は、無心に字を書くことで心身のリフレッシュをはかっていたのでしょう。集中して筆を振るう渋沢の、息遣いが伝わってきそうな書です。
刀長75.8cm、反り1.2cm。裏銘に慶応元年(1865)丑八月日
と切られています。新選組局長・近藤勇の首級が京都の三条河原にさらされた際、下僕がその首とともに会津に持ち去ったと伝わる刀で、直刃の刃文が美しい実戦向けの一振りです。刃は最初に研ぎに出したままの産刃(うぶば)ですが柄の摩耗は激しく、このことから近藤は祐芳を稽古用に使っていたと推測されます。
刀長68.5cm、反り1.4cm。表銘に「大和守源秀國/秋月種明懇望帯之」、裏銘に「幕府侍土方義豊戦刀/慶応二年(1866)八月日/秋月君譲請高橋忠守帯之」と切られており、裏銘に見える義豊は土方歳三の諱になります。
新選組副長・土方歳三が戊辰戦争で使用したと推測される刀で、刃文は直刃、拵えを見ると縁金に土方の好んだ梅の象嵌が見られ、鞘は螺鈿で加工されています。近藤勇の使用した祐芳と同様、実戦に向いた一振りです。
新選組で二番隊伍長や諸士調役兼監察を務めた島田魁が記したもの。上下巻あり、上巻は文久3年(1863)2月上旬から慶応4年(1868)の「戊辰戦争」で東北各地を転戦した後まで、下巻は慶応4年8月上旬から「箱館戦争」における降伏後の処罰までがつづられています。このうち上巻の慶応2年の項に、新選組が渋沢栄一と共に幕臣・大沢源次郎を捕縛に向かった件が触れられています。
越後国長岡藩の家老・河井継之助が、腫物の治療を友人で長岡藩医(蘭方医)の小山良運に依頼した書状で、郡奉行や町奉行を兼任した慶応年間(1865~1868)に書かれたと推定されます。小山は緒方洪庵の適々斎塾(適塾)に学んだ洋学者でもあり、継之助の良き相談相手でした。