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2022.04.10
誠実な人柄をしのばせる筆跡容保は明治13年(1880)に、現在の栃木県日光市にある日光東照宮の宮司となりました。その際に、温泉で禊(みそぎ)をしたことを詠った和歌になります。「日光山湯湖のたきを 湯のうみの あまれるたきの 本にきて なつはあつさを 先あらふらむ」と書かれています。
大蘇(月岡)芳年画。元治元年(1864)に発生した「禁門の変」における松平容保を描いています。馬に乗った猛々しい姿の容保は、敵兵の首を提げた見事な武者ぶりですが、実際のところ、この頃の容保は重病で歩行も家臣に助けられないとままならない状態でした。それでも容保は小御所の庭に席を設け、天皇を守護しました。
新政府軍が「会津戦争」最中の慶応4年(明治元年=1868)9月17日に作成した攻略図の写しで、原本の作成者は戊辰戦争で北越軍監を務めた三宮義胤。義胤は翌明治2年(1869)2月24日の白虎隊士埋葬の際、若き隊士の心情を察し、黙許した人物でもあります。この図により、新政府軍は会津若松の鶴ヶ城を4方向から攻めたことがわかります。
会津藩士・秋月悌次郎の詠んだ詩です。戦時中、秋月は北越にいる旧知の新政府軍参謀・奥平謙輔(長州藩士)のもとへ降伏のため寛典(寛大な処置)を乞いに行きますが、容れられませんでした。その帰途、暗澹とした気持ちで 「戦争に敗れたため、国を出て行くにも乗る物がなく、帰るにも家がない。会津藩は敗れ、鶴ヶ城はスズメやカラスが乱れ鳴くばかりである」と悲痛な胸の内を詠みました。福島県会津坂下町に、この詩の石碑があります。