ニュース
2025.01.06
オランダ語をカナで書いた 川本文庫蔵。龍馬が海援隊士となった甥の高松太郎に送った書状です。 慶応3年(1867)7月、神戸港に停泊中だった帆船「大極丸」の水夫が殺人事件を起こします。大極丸は海援隊が航行していましたが、薩摩藩から借りていたため薩摩の旗章が掲げてありました。薩摩藩に迷惑がかかることを危惧した龍馬は、この手紙で土佐藩の旗に取り替えるように指示しています。
文中、旗のことを「フラフ」(正しくはフラハ、オランダ語で旗の意味)とカタカナで表記しており、龍馬が外国語を使用した珍しい書状になります。
文久2年(1862)、沖永良部島(おきのえらぶじま)で遠島生活を送った際に詠んだ詩を、明治7年(1874)に装丁した史料です。
過酷な遠島生活を味わった西郷ですが、「苦しく辛いことが骨まで浸み透り、(初めて)自分の本当の心を知ることが出来る」と捉え、「自分は天に対し、我が心を恥ずかしく思うようなことはない。ましてや人に対して恥ずかしいと思うことなどない」と詠んでいます。
京都・三ノ宮神社蔵。表銘「備州長船住久山祐高作之」、裏銘「慶応三年二月日 」。刃長87.3cm、反りが1.5cmという豪壮な一振りです。
通常の刀と比べて、柄(つか)や刀身が異様に長く、このような刀は「攘夷刀」と呼ばれ、志士の間で流行しました。また薩摩に伝わる薬丸自顕流の拵(こしら)えにも見られ、持ち主は流行に乗り、薬丸自顕流の刀を攘夷刀として所持したと推測されます。
薩長同盟について、木戸孝允(桂小五郎)が詠った都々逸です。
文中、長州を梅、薩摩を桜に例えて、「同時に咲くはずのない梅と桜が一緒に咲くほど薩長締結は大変なことで、成立までに苦労をした」と述懐しています。
中岡慎太郎が記した政治論文で、数冊しか現存が確認されていません。
慶応元年(1865)冬に土佐の同志へ送ったものを含め、時勢論は複数点ありますが、本史料は慶応3年の夏、京都において武力倒幕論を説いた内容です。
明治31年(1898)、東京上野に西郷隆盛の銅像が建設されます。
それより10年前の明治21年、京都清水寺参道に西郷の銅像を建てる計画がありました。本史料はその際の銅像の下絵で、上野の西郷像は着流し姿ですが、こちらは軍服を着て、軍帽をかぶり、馬にまたがっています。
提唱者の植田楽斎は公家の出身で、幕末には反幕派として活躍し、西郷とも面識がありました。しかし計画は、植田の死去もあり頓挫しました。