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2019.03.26
〈第87回〉維新教養講座
【テーマ】「新収蔵 武溪文庫の資料について」
【講師】 増田恒男氏(公益財団法人 大倉精神文化研究所研究員)
2019年霊山歴史館リニューアル特別展で展示している新収蔵の「武溪文庫」の資料について、収集されていた増田恒男氏に解説いただきます。時代を動かした資料や、歴史的瞬間を描いた資料など、貴重な新収蔵品を通して、ぜひ当時の様子を思い描いてみてください。
*増田恒男(ますだ つねお)氏
1948年横浜生まれ。日本大学法学部卒業。司馬遼太郎記念館の学芸部長を経て、現在は公益財団法人 大倉精神文化研究所の研究員。武溪文庫では当初は横浜の資料を中心に収集していたが、その後、明治維新関連の資料も加わり維新史を研究。霊山歴史館発行の紀要11号(1998年発行)に寄稿した「司馬文学にみる横浜」では、「街道をゆく」「燃えよ剣」「龍馬がゆく」「峠」「花神」などの作品に登場する「横浜」について論じている。
「武溪」とは武蔵国の小さな谷間という意味。武蔵国久良岐郡永田村(現・横浜市南区)に住した禅僧の号が「武溪」で、その徳を慕い多くの僧が参禅した。そのもとで漢詩文芸などの文化が華開き、当時「武溪文化」とさえ呼ばれた。文庫の名はここから来ている。当初、増田氏は横浜の史料を収集していたが、明治百年にあたる1968年の維新ブームの際に収集の比重が維新史へと移る。史料収集に際しては、司馬遼太郎作品の影響が大きく漢詩・和歌へのこだわりが強いことが特徴。
早川松山画。文久2年(1862)8月21日に起こった生麦事件の様子を描いた有名な錦絵である。明治10年1月に出版された。
「酔擁美人楼」は容堂の雅号の一つで、終生これを使用した。
元治元年(1864)、井上聞多(のちの馨)は俗論党に襲撃されて瀕死の重傷を負った。高杉晋作は俗論党が勢いづいてきた状況を見て九州へ亡命する途中、井上を見舞って一片の詩を贈った。井上が苦しい息の下から「身体は数カ所を斬られる大怪我を負ったが、志はまだ衰えてはいない」と唱和したのがこの詩である。