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2023.10.28
潜伏中の桂の動向を記す出石に潜伏していた桂小五郎の動向が記された史料で、桂の潜伏を助けた広戸直蔵の記録を、直蔵の息子・正蔵が写しました。桂は出石に逃れた後、広戸兄弟に助けられながら、荒物商(雑貨屋)を開いて、商人になりすましました。内容からは、敗戦後の長州藩の状況に絶望し、これからの人生を出石の町人として生きていこうかと思い悩む心境が伺える一方で、逞しく生き抜こうとする姿も垣間見える貴重な史料です。
幾松の前半生は不明な点が多いですが、若狭国小浜藩士の家に生まれ、嘉永4年(1851)に京都へ出て、三本木吉田屋の芸妓・竹中かのの妹分として町舞になります。やがて「二代目幾松」を名乗りました。文久元年(1863)、桂小五郎(木戸孝允)と恋仲になり、禁門の変後、京から逃れた桂を呼び戻すために出石へ行くなど、桂を支えました。そして維新後に木戸の婦人となり、木戸松子と名乗りました。本史料は、幾松が愛用した文鎮で、猫の形をしています。
広戸甚助は但馬国出石出身で、対馬藩京都屋敷に出入りする小間物商でした。桂は対馬藩京都留守居役の多田荘蔵と親しく、甚助と桂は対馬藩邸で知り合いました。甚助は「禁門の変」後、幕吏の追求厳しい桂を出石に連れて帰って匿い、また長州にいた幾松を出石に連れていき、桂に会わせました。第二次幕長戦では長州の弾薬輸送や連絡にあたりました。直蔵は甚助の弟で、兄と共に桂を匿い、桂が長州へ帰国した際には幾松と共に同行しています。
広戸喜七とは、広戸甚助や直蔵の父です。広戸兄弟は元治元年(1864)12月上旬、桂を保護していることを両親に話して説得し、喜七の家で匿ってもらいました。本書状は桂が長州へ戻る道中に書いたもので、無事を知らせると同時に、同道する直蔵の身の安全を保障するなど、喜七への気遣いが見られます。
文久2年(1862)、沖永良部島(おきのえらぶじま)へ遠島となった西郷が詠んだ詩を、明治7年(1874)に装丁したものです。遠島という苛酷な処置を下されたが、「苦しくつらいことが骨まで浸み透って(初めて)自分の本当の心を知ることが出来る」と捉え、「自分は天に対して我が心を恥ずかしく思うようなことはない。まして人に対して恥ずかしいと思うことなどない」と詠んでいる。西郷の本質に迫る詩書です。
桂小五郎(維新後、木戸孝允)が、匿ってもらった礼として広戸家に与えた短刀です。 銘は「備州長舩則光(びしゅうおさふねのりみつ)」と切られていますが、偽銘になります。
木戸松子(幾松)愛用の髪飾り。1つは銀珊瑚の前飾り、もう1つはダイヤモンドがついた笄(髪留め)で、優雅な逸品です。木戸孝允が妻に贈った品で、木戸夫婦の仲睦まじさが伝わってきます。