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2023.12.19
海舟の代表作に挙げられる漢詩安政7年(万延元年=1860)、海舟は咸臨丸に乗船してアメリカへ向かい、サンフランシスコに入港しました。日米修好通商条約の批准書(同意書)を交換する遣米使節の乗船するポーハタン号を護衛するためでした。その際の心情を記した漢詩で、「サンフランシスコから見る月は故郷の月には似ていない。思えば遠くまできたものだ」と感慨を詠っています。
明治37年(1904)の「日露戦争」開戦前夜、明治天皇の皇后である昭憲皇太后の夢枕に龍馬が立ち、「誓って皇国の御為に帝国海軍を護り奉る」と奏上します。その話を聞いた皇太后の側近・香川敬三が龍馬の写真を献上すると、「夢に現れたのは龍馬に違いない」と驚かれました。この瑞夢事件は当時の新聞でも取り上げられ、龍馬ブームが巻き起こります。本史料は、皇太后に献上された龍馬写真の一つで、歴史評論家や政治家を務めた徳富蘇峰(とくとみ そほう)の旧蔵品になります。
慶応3年(1867)10月24日付で、龍馬が同志の岡本健三郎に送った手紙です。越前福井へ赴くにあたり、同行の岡本健三郎へ出発の時間などを指定しています。龍馬は岡本と共に京都を出立し、同月28日に福井藩に着くと、藩士・三岡八郎(由利公正)と新政府樹立後の財政問題について語り合いました。龍馬は同年11月15日に近江屋で殺害されたため、落命前月の手紙です。
今井信郎は京都見廻組の隊士で、「戊辰戦争」を箱館まで戦いました。そして降伏後、兵部省や刑部省の取り調べで、自身も加わった近江屋での龍馬襲撃について証言しました。そして禁固を経て、その後、静岡県榛原郡初倉村の村長になります。本脇差の分類は新刀で、銘は「山城守源一法(やましろのかみ みなもとの いっぽう)」、茎(なかご)に菊紋が切られ、刀長42.0cm、反り1.0cmです。今井は箱館まで転戦した際、資金難でこの脇差を手放します。しかし余程思い入れが強かったようで、探し回って数十年後に買い戻しました。
海舟が亡くなる3年前に、自身の半生を詠んだ漢詩です。数え年74歳になった明治24年(1896)春、病に倒れます。その後、5月になってようやく快方に向かいましたが、その際に詠みました。海舟が自身の人生を回顧した内容で、その人生観を伺うことができます。