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2024.04.02
黒船来航で出回った 本題は『北亜墨利加洪和政治洲上官真像之写』で、「洪和政治洲」は合衆国の意味になります。
なぜか中国の青竜刀を持ったペリーが描かれています。ペリーの写真やアメリカで描かれた肖像画はサーベルを持っているため、それが青竜刀に変化したものと考えられます。
ペリー艦隊の副使であるヘンリー・アレン・アダムズ(1800~1869年)の肖像画で、「北亜墨利伽合衆国之軍将アハタムス 嘉永七甲寅正月渡来 相州浦賀江着 軍将十二人其内第三番之大将ナリ」と書かれています。
目を見開いた迫力ある姿で描かれていますが、ペリーも日本の瓦版などでは鬼のように恐ろしい姿で描かれていることが多いです。
1856年刊行の元老院版(全3冊)と、1857年刊行の縮刷版(全1冊)の2種類があり、本史料は縮刷版になります。
ペリーは帰国後、2年にわたる日米外交を後世に伝え、かつ多くの人々に親しまれる著作を志し『ペリー艦隊日本遠征記』の執筆に取り組みました。
縮刷版では挿絵や版画を駆使して、幕府との交渉の過程や、日本の風俗まで詳細に記されています。
中島三郎助(1821~1869年)は浦賀奉行所の与力で、嘉永6年(1853)のペリー来航時には、架空の役職である副奉行と称して折衝しました。のちの「戊辰戦争」時には、榎本武揚らと北海道へ渡って蝦夷共和国の箱館奉行並に就きます。そして箱館戦争では最後まで新政府軍と戦い続け、最期は千代ケ岱(ちよがだい)で2人の息子たちと戦死しました。
中島は文武両道の人物で、「木鶏(もっけい)」という雅号を持ち、和歌に優れていまし
た。
松陰は西洋事情を知るために、命の危険を冒して海外密航を計画しました。
これを「下田踏海(しもだとうかい)」といいます。
本史料は、再来航したペリー艦隊に嘉永7年(安政元年=1854)3月27日、弟子の金子重之輔と乗り込もうとした松陰を描いています。
ところが「日米和親条約」の締結直後だったこともあり、アメリカ側は乗船を拒否し、計画は失敗しました。その後、自首した松陰たちは投獄されました。
密航に失敗して獄へ繋がれた松陰が、安政元年(1854)9月3日付で江戸伝馬町の牢屋から土屋蕭海(つちや しょうかい)へ送った書状です。土屋は萩で子弟の教育にあたっており、松陰と親交がありました。
本書状で、松陰は獄舎の内容にふれ、連座して投獄された佐久間象山は「第二舎東揚屋(正確には東奥揚屋)」に、金子重之輔は「第三舎則東大牢」に投獄されたと報じています。ちなみに、松陰は東口揚屋へ投獄されました。
安政6年(1859)、「安政の大獄」での江戸送りに際し、松陰が同志の土屋肅海へ送った漢詩です。
文中、松陰は「私の志は、百世後、聖人に理解されるだろう」と詠っており、当時の心境を察することができます。