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2020.09.08
幕末の両雄 直筆の書状!!坂本龍馬と中岡慎太郎の書状で、書かれた時期は違いますが、宛名は共に土佐藩大監察・本山只一郎(もとやま ただいちろう)になっています。
文中、龍馬は「薩長が藩論を統一したので、土佐藩も早く藩論を統一してほしい」、「運んできたライフル銃の購入を決めてほしい」と、本山をせかしています。
また中岡は前土佐藩主・山内容堂が幕府に大政奉還の建白をする方針を固めたことを受け、「天下の大戦争になることは明白だ」と予言しています。
刀長:72.0cm。反り:1.3cm。目釘穴:2個。
京都見廻組肝煎・桂早之助が慶応4年(明治元年=1868)正月3日、「鳥羽伏見の戦い」で戦死した際に使用していた刀です。
刀身には慶応3年12月頃、二条通西洞院を巡回中、3人の薩摩藩士に囲まれ斬りあった時にできた傷が確認できます。
早川松山画。慶応4年(明治元年=1868)9月22日、1ヶ月間に及んだ「会津籠城戦」が、会津側の降伏・開城によって終結します。
この錦絵では、中央に描かれた前会津藩主・松平容保が、新政府軍の軍監・中村半次郎(のちの桐野利秋)に降伏状を手渡す場面が描かれています。
金子堅太郎は福岡藩の出身で、岩倉使節団に随行してアメリカに留学し、帰国後、明治政府に出仕して伊藤博文らと大日本帝国憲法の起草にあたりました。
大日本帝国憲法の草稿は夏島(神奈川県)にあった伊藤の別邸で練られました。この漢詩は、後年に夏島を訪れた金子が、伊藤の功績を偲ぶ内容になっています。
金子は近藤勇が使用した長曽祢虎徹を所持していたといわれ、『新選組始末記』を著した子母澤寛に、自分が近藤の虎徹を持っている、との旨を記した手紙を送っています。
杉浦梅潭(1826~1900年)は幕府の旗本で、大番、鉄砲玉薬奉行、洋書調所頭取、目付等を経て箱館奉行に任命されました。しかし在職中の慶応4年(明治元年=1868)3月、朝廷に箱館奉行所を引き渡すよう命じられ、清水谷公考に奉行所を明け渡し江戸へ帰還します。そして維新後は明治政府に仕え、北海道の開拓に尽力しました。
この扇には、「君主」と題した漢詩が書き添えられています。