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2021.01.19
直筆の漢詩!!渋沢が明治43年(1909)、アメリカへ渡った際に詠んだ漢詩です。送り先の中井は和洋紙問屋中井商店社長・四代目中井三郎兵衛のことで、三郎兵衛の父である三代目中井三郎兵衛は、渋沢たちと四日市製紙の設立に尽力しました。
文中「まごころで接して、多くの人の厚情に応えたうえで帰国することになり、喜ばしい限りだ」とあり、渋沢の人柄が伺えます。
慶喜が渋沢へ還暦の祝いに贈ったと推測される色紙で、中国で最初にまとめられた詩集『詩経』に見られる「春に造った酒を老人たちの滋養にあて、長生きをしてもらう」という大意の一節が書かれています。この色紙からは、両者の交友の深さが感じ取れます。
大隈が明治初期に住んでいた東京・築地本願寺近くの邸宅は、渋沢栄一をはじめ多くの政治家、官僚、財界人が集まり議論を交わしたため、「梁山泊」(中国の『水滸伝』に見える有志の集まる地)と呼ばれていました。この写真は梁山泊に住んでいた頃の大隈を写したもので、前列中央が大隈、前列左が伊藤博文、前列右が井上馨、後列左が中井弘になります。
江藤新平が佐賀藩士・石井富之助に宛て送った書状で、文中、香川敬三の名前も見えます。石井は「戊辰戦争」に従軍して功績のあった人物で、維新後は明治政府に出仕し大村益次郎や山県有朋の下で働きました。江藤の直筆の文書は現存数が少ないため、大変貴重な資料と言えます。